1349投稿 (2020/08/17 16:24:36)
私がブログを始めた理由。

一、自分の思想を悠々と語りたい。
一、自分の描いた絵を載せたい。
一、自分の書いた小説を載せたい。

これが主な理由である。

後者2つは少し形は違う気もするが達成できている。

が、しかし。前者はまだ何も発言していないのでは…?と昨日の夜にちょっと思いまして。

今この場を借りて語らせてもらいます。(改行とか面倒臭いのでほぼしてません。長文注意)


まずは私自身について。私はいわゆる刹那主義のフリをしている功利主義、と言いつつ実際は平等主義に憧れている人物である。今が楽しけりゃそれでいい、これは日々思っている。だが私はこの言葉を理由に後先のことを放棄している、と自分で言いたいがそんなこともない。自分の立ち回りによって例えばクラスの皆、家族、私の周りにいる人たちが得をする、というのが私の理想である。出来るだけそれを周りに悟らせないようにするのが私の目指すところで、全員が幸せになるようにするのは不可能だと諦め功利主義に落ち着いているのが今の現状である。だが全員が幸せに、平等に暮らせることが出来るならばしたいところ、つまり平等主義に憧れている。私は自己犠牲精神に憧れた一種の厨二病患者なのだ。


だが、もし、日本国が憲法を破る、もしくは憲法を改正し自衛の為と言って武力を持つようになり戦争が始まったら。あたりは炎、炎、炎。逃げ場はもう10秒もすればなくなる閉鎖空間。そんな時自分はどうするだろうか。理想としてはいち早く周りに指示を出し全員救う方法が挙げられる。私は自己評価がかなり高い。そんな状況に陥った場合は「私がいなければ周りは終わる」と考えまだ自分は生き残らなければならないと考えるだろう。ここまではなんとなく予想ができる。理科の実験で経験したことがあるが、火は思ったより燃え移らない。少しの間の高温と痛みに耐えればこちらの勝利である。頑張れ私。


次に、敵兵が市街地に侵攻してきた場合。もしクラスの苦手な女子が危険にさらされていた場合、自分はその子を助けられるだろうか。勇気を出してその子の手を引き比較的安全な場所に誘導できるだろうか。理想としては行動すること。苦手だからといって命を見捨てるわけにはいかない。が、親友とその子、どちらもがそのような状況に陥った場合。果たして2人の手を引くことが出来るのか?引くことで両方を助けられる場合。助けたいと思う。が、そんなこと実戦ではわからない。そのときの身の程知らずの私が戦火が燃える中行動出来るかどうかにかかっている。2人の手を引き1人しか助からない場合。自分を犠牲に2人を助けることが出来るのか?


さて、ここで私は長考する。もし自分を犠牲にし2人を助けた場合。2人は私の死を踏み台に生き延び後世に戦争はクソ、日本国もクソ、と伝えることが出来るのか。それが出来なければ私が死んだ意味は。今までの功績は。記録もろくにつけられないような戦争の日々の中で私のスーパァな活躍はどうなる(してないんで元から0ですね。)。それなら見捨てて私が生き残り後世に伝える方がマシだ。もし1人しか助けられなかった場合。親友が助かった場合は後で皆に責めらるだろう。何故あの子も助けてやらなかった。私の友達を返して。娘を返して。なら貴様らは1人しか助けられない状況で親友を見捨てるのか?と問い質したいところだが実際2人助けられたかもしれないので何も言わないでおく。自分だけ生き残った場合。多分何も思わないだろう。私は結構冷酷な人間だと思う。今年六月の中旬、塾の同級生が事故で亡くなった。非常に不謹慎だがその知らせを受け私は涙の一滴も流せなかったのだ。唯一うるっときたのがその子の母親と会話した際。とても気の毒に思った。全てを悟ったような顔をしお通夜に来た者全員と対話し…正直直視できなかった。発言も何も出来なかった。何か言ってしまえばその子の母親の傷をえぐるだけだったと思うのでその選択は正解だったと思う。


…とまぁ関係ない話をしてしまった。つまりかなり仲の良い人達でも亡くなってしまったらどうもしないのだ。ただ肺のあたりが気持ち悪くなるだけで今後の行動に支障は出ないだろう。静かに眠ったように横たわる遺体を見ても泣かない私は多分赤くなった友人を見てもただ怖いと感じるだけだろう。敵兵が引いてった後その友人2人の遺体を持ち帰ることができるならすると思う。私だけのこのこと合流するわけにもいかないからだ。2人が亡くなったら死人に口なしと都合のいいばかりにその状況を盛って話し仕方がなかったということを周りに信じ込ませるだろう。そのことで周りに踏ん切りをつかせたい。しかしそれでストレスが溜まってしまうのも嫌なので自分の所為だと後悔していると演技をするかもしれない。そうしたら周りは気の毒に思い何も言及しないかもしれないからだ。私は自分の所為だと抱え込み周りを味方につけることを何回もやってきている。そのとき私を責めたものは周りから白い目で見られる。我ながら酷い立ち回りだがこれのおかげで多数が助かっている(と思い込んでいるだけかもしれないが)ので良いと思っている。


一番最悪なのは全員死亡ルートだ。これは最悪中の最悪。私は何も出来ず死に、2人は断末魔をあげて死に。こちらのメリットが何もない。これだけは避けたい。私が死ぬことにより今後助けることが出来たかもしれない命を見捨てることと同義。本気でこれだけは嫌だ。



ここまで長々と語ってきたが果たして実行出来るのだろうか。周りのことを考えることが出来るのだろうか。

結論:無理です。

当たり前だろクソが。
周りのことなんか考えてられるか。
多分周りも私と同じ様に周りのことなんか考えない。
自分だけが助かれば良いと通常アニメ版ジャイアニズムを掲げ何としてでも生き残ってやろうとする。
映画版ジャイアニズムなんて都合のいいものだ。

そんな中私はストレスの溜まる一方、自分だけ生き残ってやろうと利己主義に陥る。

人間の本質なんてものは全て利己主義であると思う。
人間生まれた時から悪人なのだ。そこから学習し善人になるのが少数、要は善人の仮面を被った悪人なのだ。

今私は13歳。生まれて13年のやつが何をほざいている、と思うかもしれない。だがここまで私の思想は固まってきている。
思春期の中で思想が蜃気楼のように蠢く中私は日々空想の世界でヒーロー的なアレに憧れているだけなのだ。

普段は何もしない、ただの傍観者の私が緊急時になると有能になる。これを目指している。


厨二病クサいな。


まだ言いたいことは沢山あるんだぞお前ら。



私という生物は他人からの目を気にしまくっているただの人間。

刹那主義の仮面を被った功利主義、のフリをしている利己主義者だ。

生まれながらの悪人の上に貼り付けたような善人の面の中には平等主義に憧れている、という設定も入っている。

つまりは世間体の良いような人間になりたいがあまり設定厨に成り下がった下賎な人間、ということだ。理解したか?


今日はこれくらいにして。

またいつかこういう風に長々と語りましょう。

ではお元気で。

Kurasuta,





(c) Kurasutakurasuta.


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